誰かを見て、
「羨ましいな」
と思うことがあります。
仕事で評価されている人。
自分より先に昇進した人。
自由そうに暮らしている人。
たくさんの人から注目されている人。
幸せそうな家族。
充実しているように見える毎日。
そんな姿を目にしたとき、心が少しざわつく。
そして、ときにはそのあとに、
「それに比べて自分は……」
という気持ちまで出てくることがあります。
羨ましい。
悔しい。
焦る。
嫉妬する。
あまり人には見せたくない感情かもしれません。
でも私は、そうした感情を無理になくそうとしなくてもいいのではないかと思っています。
大切なのは、
「羨ましい」と感じた自分を否定することではなく、その奥に何があるのかを少しだけ見てみること。
そこには、自分でも気づいていなかった本音が隠れていることがあります。
「羨ましい」のあと、すぐ前向きになれなくてもいい
「羨ましいと思ったなら、自分も頑張ればいい」
言葉にすると、とてもきれいです。
でも、人の感情はそんなに簡単ではありません。
誰かを羨ましいと思ったあとに、
「じゃあ、自分も頑張ろう」
とすぐ前を向ける日もあれば、
「どうせ自分には無理だ」
「自分なんて」
と沈んでしまう日もあります。
私は、その時間まで否定しなくてもいいと思っています。
悔しいなら、悔しい。
寂しいなら、寂しい。
羨ましいなら、羨ましい。
まずは、
「今、自分はこう感じているんだな」
と気づくだけでもいい。
そこに、
「こんなことを思う自分は性格が悪い」
という、新しい否定まで重ねない。
感情は、きれいに整ってから現れてくれるわけではありません。
だからこそ、まずはそのまま認めるところから始めたいと思います。
近い人ほど、なぜ気になるのか
不思議なことに、嫉妬する相手は、自分とまったく違う世界の人よりも、比較的近い人であることが多いように思います。
同じ会社。
同じ年代。
似た仕事。
同期。
友人。
兄弟。
近い立場にいるからこそ、
「あの人よりはできている」
「あの人には負けている」
という感覚を持ちやすくなる。
ランキングでいえば、接戦なのだと思います。
世界的な成功者を見ても、
「すごいな」
で終わることがあります。
でも、昨日まで自分と同じ場所にいたように感じていた人が一歩先へ進むと、
「自分にもできたかもしれない」
という感覚が生まれる。
そこに、悔しさや嫉妬が入り込むことがあります。
ただ、そのとき本当に苦しいのは、相手の成功そのものではないのかもしれません。
「自分も認められたかった」
「自分もそこに行きたかった」
「置いていかれたくなかった」
そんな自分側の痛みが、相手を通して見えていることもあります。
嫉妬とは、
相手との距離が急に見えてしまったときの痛み
でもあるのかもしれません。
他人の物差しで、自分を採点していないか
比較を始めると、人はいつの間にか順位をつけます。
役職。
年収。
家。
結婚。
子ども。
見た目。
フォロワー数。
周囲からの評価。
相手が持っているものと、自分が持っているものを並べて、
「勝っている」
「負けている」
と採点してしまう。
でも、ここで一度考えてみたいことがあります。
私は今、誰の物差しで自分を測っているのだろう。
会社で役職が高い方が成功。
収入が多い方が幸せ。
多くの人から知られている方が価値がある。
立派な家を持っている方が人生は順調。
いつの間にか、社会や周囲から借りた物差しを、自分の人生にも当てていることがあります。
でも、
そもそも自分は、そのランキングで一位になりたいのでしょうか。
自分が本当に大切にしたいものは、そこにあるのでしょうか。
嫉妬した瞬間は、
他人の物差しで、自分を採点し始めている瞬間
でもあるのかもしれません。
だからこそ、
「その物差しは、本当に自分が使いたいものなのか」
と一度問い返してみる。
それだけでも、比較との距離が少し変わる気がします。
「羨ましい」は、本当に「欲しい」なのか
もう一つ、気をつけたいことがあります。
誰かを羨ましいと思ったからといって、
その人が持っているものを、自分も本当に欲しいとは限りません。
昇進した人を羨ましいと思った。
でも、よく考えたら欲しいのは役職ではなく、
「自分も認められている」という実感
だったのかもしれない。
頻繁に旅行をしている人が羨ましい。
でも、本当に欲しいのは旅行そのものではなく、
「自由に使える時間」
なのかもしれない。
多くの人から注目されている人が羨ましい。
でも欲しいのは数字ではなく、
「自分の存在や言葉が誰かに届いている感覚」
かもしれません。
そう考えると、
「羨ましい」は答えではなく、入口です。
だから、
「この羨ましさの奥で、自分は本当は何を欲しがっているんだろう」
と少し掘ってみる。
さらに、
「それは本当に自分が欲しいものなのか。それとも、持っていた方が価値があると思っているだけなのか」
まで考えてみる。
羨ましいという感情から、自分の価値観が見えてくることがあります。
持っていないことと、自分の価値は別の話
比較しているとき、特に気をつけたいことがあります。
それは、
「今持っていないもの」と「自分自身の価値」を混ぜてしまうこと。
昇進していない。
注目されていない。
思ったほど結果が出ていない。
欲しかったものが、まだ手に入っていない。
それらは、
「今、自分が持っていないもの」
についての話です。
でも、いつの間にか、
「だから自分には価値がない」
という話に変わってしまうことがあります。
本来、この二つはまったく別のものです。
だから、比較して苦しくなったときは、
「私は今、欲しいものが手に入っていないだけなのか。それとも、本当に自分に価値がないと思っているのか」
と分けて考えてみたい。
欲しいものが手に入っていない。
悔しい。
それはあっていい。
でも、それを理由に自分自身まで小さくする必要はありません。
嫉妬を認めることと、嫉妬に従うこと
羨ましさが強くなると、嫉妬に変わることがあります。
「あの人ばかり評価されている」
「そんなにすごいのかな」
「自分だって頑張っているのに」
ときには、
「失敗すればいいのに」
とまで思うことがあるかもしれません。
私は、そんな感情まで含めて、まずは認めていいと思っています。
「今、自分は嫉妬しているな」
と気づく。
それは、嫉妬を肯定することでも、そのまま行動に移すことでもありません。
感情があることと、その感情に従うことは違います。
嫉妬を認めることは、
「なぜこんなに心が動いているんだろう」
と、自分に問いを返すこと。
一方で、嫉妬に主導権を渡してしまうと、
陰口を言う。
相手の成果を必要以上に否定する。
粗探しをする。
足を引っ張る。
そんな方向へ進むことがあります。
すると、本当は向き合うべきだった、
「自分は何を欲しいのか」
「何が悔しかったのか」
「何に不安を感じているのか」
という自分自身の課題から目をそらし、
相手への攻撃にエネルギーを使うことになります。
それは、問題のすり替えなのだと思います。
嫉妬を認めることは、自分の感情から逃げないこと。
嫉妬に従うことは、自分の課題から逃げて、相手に矢印を向けること。
その違いは大切にしたいと思います。
感情はあっていい。行動は選べる
嫉妬したからといって、すぐに前向きな行動へ変換する必要もありません。
「よし、自分も頑張ろう」
と思える日もあれば、
「今日は悔しいな」
で終わる日もある。
それでいいと思います。
大切なのは、
感情を消すことではなく、その感情に自分の行動まで決めさせないこと。
羨ましい。
悔しい。
嫉妬する。
それらは、自分の中に自然に生まれるものです。
でも、
誰かを傷つけるのか。
自分を否定するのか。
一度立ち止まって考えるのか。
そこから先は、自分で選ぶことができます。
感情は自由。
でも、行動には自分の意思を残しておく。
それだけでも、嫉妬との付き合い方は少し変わるのではないでしょうか。
比較を、自分を裁くものから、自分を知るものへ
人と比べることを、完全になくすことは難しいと思います。
だから私は、
「比べないようにしよう」
と無理に思わなくてもいい気がしています。
むしろ比較したとき、
「なぜ私は、この人を見てこんなに心が動いたんだろう」
と、自分に問いを戻す。
羨ましい。
悔しい。
嫉妬する。
その感情の奥に、
自分が欲しかったもの。
大切にしたかったこと。
本当は認めてほしかった気持ち。
自分でも気づいていなかった価値観。
そんなものが隠れていることがあります。
比較を、
自分を裁く材料ではなく、自分を知る材料に変えてみる。
それなら、羨ましさも嫉妬も、ただ苦しいだけの感情ではなくなるかもしれません。
「羨ましい」の奥にあるもの
「羨ましい」と思ってもいい。
一度、落ち込んでもいい。
悔しくてもいい。
嫉妬してしまう自分がいてもいい。
大切なのは、そこで自分まで嫌いにならないこと。
そして、その感情に自分の心を全部渡さないこと。
少し落ち着いたら、
「私は何を欲しがっているんだろう」
「誰の物差しで自分を測っているんだろう」
「これは、本当に自分が欲しいものだろうか」
と問いを返してみる。
すぐに答えが出なくても構いません。
何もしない日があってもいい。
ただ、
「羨ましい。でも、それで自分まで小さくしなくていい」
と思えるだけでも、少し違う。
誰かの人生を見て心が動いたとき。
その人の人生を追いかけるのではなく、
そこからもう一度、自分の人生に戻ってくる。
「羨ましい」の奥にあるものを見つめることは、
自分が何を大切にして生きたいのかを知ること
なのかもしれません。

