社会人になると、本当にたくさんの人と出会います。
気が合う人。
もっと話してみたいと思う人。
一緒にいると自然体でいられる人。
その一方で、
考え方が合わない人。
なぜか一緒にいると疲れてしまう人。
できることなら少し距離を置きたいと思う人。
きっと誰にでも、そんな人がいるのではないでしょうか。
私たちは小さい頃から、
「みんなと仲良くしよう」
「相手の立場になって考えよう」
「自分から歩み寄ろう」
と教えられてきました。
どれも、とても大切なことだと思います。
でも、大人になって多くの人と関わるようになると、どうしても思うことがあります。
すべての人と、分かり合わなければいけないのでしょうか。
分かり合えないことは、失敗なのだろうか
価値観も違えば、育ってきた環境も違う。
仕事の進め方も、コミュニケーションの取り方も、人によって違います。
そんな人たちが同じ場所で働いているのだから、全員と気が合う方が不思議なのかもしれません。
それでも人間関係がうまくいかないと、
「もっと自分から歩み寄った方がいいのかな」
「自分の伝え方が悪かったのかな」
「この人を苦手だと思ってしまう自分に問題があるのかな」
と考えてしまうことがあります。
もちろん、自分自身を振り返ることは大切です。
でも、どちらかが悪いわけではなく、単純に考え方や相性が違うこともある。
分かり合えないことそのものを、失敗だと考えなくてもいいのではないでしょうか。
仕事であれば、全員と親友になる必要はありません。
必要な情報を共有する。
相手の役割を尊重する。
挨拶をする。
必要な相談や報告をする。
それができていれば、
仲良くなくても、一緒に仕事をすることはできる。
そんな関係があってもいいと思います。
距離を取ることは、相手を拒絶することではない
苦手な人がいるとき、
「距離を取る」
という言葉には、少し冷たい印象があるかもしれません。
でも、距離を取ることと、相手を無視することは違います。
仕事で必要なコミュニケーションは取る。
相手への最低限の敬意も忘れない。
そのうえで、
必要以上に雑談をしない。
無理に親しくなろうとしない。
休憩時間まで一緒に過ごさない。
仕事以外の関係まで広げない。
そんな選択肢もあります。
人との距離は、
「仲良くする」か「関係を切る」か、
0か100ではありません。
近くにいたい人もいれば、少し離れていた方がお互いに心地よい人もいる。
人間関係にも、自分に合った距離のグラデーションがあっていい。
そう思います。
「反応」ではなく、「対応」を選んでみる
苦手な人との関係で難しいのは、相手の感情に自分の感情まで引っ張られてしまうことです。
強い口調で言われれば、こちらも強い口調で返したくなる。
不機嫌そうにされれば、
「自分が何かしたのかな」
と考えてしまう。
でも、相手の感情にそのまま感情で返していると、いつの間にか相手との関係に自分の気持ちまで支配されてしまいます。
そんなときこそ、
「反応する」のではなく、「対応する」
という考え方が役に立つのかもしれません。
「なぜそんな言い方をするんですか」
ではなく、
「今、仕事として何を確認すればいいのだろう」
と考えてみる。
感情をなくすということではありません。
腹が立つこともあれば、悲しくなることもあります。
ただ、
相手の感情に、自分の感情まで預けない。
そのために、少しだけ距離をつくる。
そんなイメージです。
事実と、自分の解釈を分けてみる
人間関係で苦しくなったとき、もう一つ難しいことがあります。
それは、
起きた事実と、自分の解釈が混ざってしまうことです。
例えば、
「挨拶をしたけれど、返事がなかった」
これは事実です。
でも、
「きっと自分のことを嫌っている」
となると、それは自分の解釈です。
もちろん、本当にそうかもしれません。
でも、違うかもしれない。
考えても分からない相手の気持ちを想像し続けることで、自分自身を疲れさせてしまうことがあります。
「実際に起きたことは何だったのだろう」
「自分が想像していることは、どこからだろう」
少しだけ分けて考えてみる。
それだけでも、心の中に少し距離ができることがあります。
自分に矢印を向けることと、自分を責めること
人間関係で問題が起きたとき、
「まず自分に矢印を向けよう」
と言われることがあります。
私は、この考え方自体はとても大切だと思っています。
「自分の伝え方に改善できるところはなかったか」
「相手の話をもう少し聞けなかったか」
「次はどう行動したいか」
自分が変えられるところを見ることは、自分自身の成長につながります。
でも、真面目な人ほど、その矢印を自分に向けすぎてしまうことがあります。
「相手が怒ったのは、自分が悪かったから」
「嫌われたのは、自分に問題があるから」
「もっと自分が変われば、この人とも分かり合えるはず」
いつの間にか、
内省が、自己否定に変わってしまう。
でも、自分に矢印を向けることと、すべてを自分の責任にすることは違います。
自分の言葉や行動は変えられる。
でも、
相手の感情。
相手の価値観。
相手の機嫌。
相手がどんな言葉を選ぶのか。
そこまで自分が背負うことはできません。
自分に矢印を向ける目的は、自分を責めることではなく、
「自分にできることは何だろう」と考えること。
そこまで考えたら、
「ここから先は、相手の課題かもしれない」
と矢印を戻してもいいのだと思います。
それでも傷つき続けるなら、離れてもいい
ここで、一つ分けて考えておきたいことがあります。
「なんとなく苦手」
という相手と、
継続的に人格を否定されたり、威圧されたり、自分の尊厳を傷つけられる相手は、同じではありません。
前者であれば、距離を調整することで一緒に働けることもあります。
でも後者の場合まで、
「自分が変わればいい」
「もう少し相手を理解しなければ」
と耐え続ける必要はないと思います。
第三者に相談する。
会社に伝える。
部署を変えてもらう。
状況によっては、その環境そのものから離れることを考える。
それを「逃げ」と考える必要はありません。
人間関係を続けるために、自分を壊す必要はない。
分かり合う努力はしてもいい。
でも、
分かり合うことを義務にしなくてもいい。
自分の心と体が健やかであることより、大切な人間関係など、本当にあるのでしょうか。
頭の中の「会社のドア」を閉める
そして、これが一番難しいことなのかもしれません。
仕事が終わって家に帰ったのに、苦手な人のことが頭から離れない。
「あの言い方は何だったんだろう」
「自分のことをどう思っているんだろう」
「明日また何か言われるかな」
物理的には会社を離れているのに、頭の中ではまだ仕事をしている。
「気にしなければいい」
と言われても、そんな簡単にできないこともあります。
だから私は、
頭の中にある「会社のドア」を閉める
と考えてみたいと思っています。
もちろん、一度閉めれば二度と開かないような便利なドアではありません。
お風呂に入っていたら、また開く。
ベッドに入ったら、また開く。
「あの人さ……」
と、頭の中から勝手に入ってくる。
そんな日もあります。
そのたびに、また閉めればいい。
「今考えて、何か答えが変わるだろうか」
「明日できることは決まっているだろうか」
そこまで考えたなら、
今日はここまで。
また明日必要になったら、そのドアを開けばいい。
あなたの大切な時間の多くを、その人に渡さない
苦手な人のことが気になってしまう。
それ自体は仕方のないことだと思います。
傷ついたら、考える。
腹が立ったら、思い出す。
人間だから、それは自然なことです。
でも、
あなたの大切な時間の多くまで、その人に渡す必要はありません。
仕事が終わったあとには、自分の人生があります。
好きなものを食べる時間。
大切な人と話す時間。
音楽を聴く時間。
何もしない時間。
自分を休ませる時間。
その時間まで、苦手な誰かのために使わなくてもいい。
心の距離を取るということは、相手を完全に頭の中から消すことではないのだと思います。
気になったとしても、
「ここから先は、自分の時間」
と、何度でも境界線を引き直すこと。
そして、自分の日常へ戻ってくること。
それも、自分を守るための一つの方法なのかもしれません。
分かり合えなくても、尊重することはできる
すべての人と分かり合うことは、きっとできません。
でも、分かり合えないからといって、相手を敵にする必要もありません。
好きになれなくてもいい。
親しくならなくてもいい。
必要な敬意を持ちながら、お互いに心地よい距離で関わる。
それで成立する人間関係もあると思います。
自分にできることは振り返る。
必要なら、歩み寄る。
自分が間違っていたなら、認める。
でも、相手の課題まで背負わない。
そして、自分の尊厳や健康が傷つけられるのであれば、離れることも選んでいい。
人との距離は、一つではありません。
近づくこともできる。
少し離れることもできる。
必要最低限で付き合うこともできる。
ときには、大きく離れることもできる。
その距離を選ぶ権利は、自分にもあります。
分かり合う努力はしてもいい。
でも、分かり合うことを義務にしなくてもいい。
人との関係を大切にすることと、
自分自身を大切にすること。
どちらか一方を選ぶのではなく、その間にある自分なりの距離を探していく。
それも、人と生きていくということなのかもしれません。

