人を育てるとは、どういうことなのだろう。
知識を教えること。
間違いを正すこと。
できないことを、できるようにしてあげること。
もちろん、どれも教育には必要なことだと思う。
けれど、教える側が一生懸命になるほど、忘れてしまうことがある。
相手は今、本当に教えてほしいと思っているのだろうか。
困ってもいない。
助けを求めてもいない。
自分で考えようとしている。
そんなときに「あなたのためだから」と答えを与え続けることは、教育というより、大きなお世話になってしまうこともある。
教育とは、本当に「教えること」なのだろうか。
「啐啄同時」という言葉
「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉がある。
雛が卵から生まれようとするとき、内側から殻をつつく。これを「啐(そつ)」という。
その音を感じた親鳥が、外側から殻をつつく。これが「啄(たく)」。
内側と外側。
その二つが重なることで殻が破れ、雛は外の世界へ出てくる。
私は、この言葉が教育というものをとてもよく表しているように思う。
大切なのは、親鳥が先に殻を割ってしまうわけではないということだ。
最初に殻を破ろうとするのは、雛自身なのである。
教える前に、相手を見る
人が成長するときも、きっと同じなのだと思う。
うまくいかない。
どうしたらいいのかわからない。
今までのやり方では乗り越えられない。
人はそんな壁にぶつかりながら、考える。
そして、自分の力で何とかしようともがく。
教える側からすると、その姿は少しもどかしい。
自分には答えが見えているからだ。
「こうすればいいよ」
そう言ってしまえば、すぐに解決するかもしれない。
けれど、その答えを渡すことが、本当にその人のためになるとは限らない。
本人がまだ自分で考えられるのなら、待ってみる。
本人がまだ挑戦できるのなら、やらせてみる。
そして本当に困ったとき、壁にぶつかったとき、助けを必要としているときに、そっと外側から力を貸す。
教育に必要なのは、教える力だけではない。
相手を見る力なのかもしれない。
「待つ」と「放任」は違う
ただ、待つということは、何もしないことではない。
放任とも違う。
頑張っている姿を見ている。
考えている姿を見ている。
悩んでいる姿も、苦しんでいる姿も見ている。
そして心のどこかで、いつも伝えている。
「困ったときは、いつでも頼っていい」
見ているからこそ、待つことができる。
信じているからこそ、すぐには手を出さない。
そして「今だ」と感じたときには、そっと手を差し伸べる。
もしかすると、教えることよりも、待つことのほうが難しいのかもしれない。
大切な相手であればあるほど、失敗してほしくない。
傷ついてほしくない。
遠回りしてほしくない。
だから、先に殻を割ってあげたくなる。
けれど、その人が自分で殻を破ろうとする前に、こちらがすべて割ってしまったらどうだろう。
失敗は避けられるかもしれない。
でも同時に、
「自分で乗り越えた」
という経験まで奪ってしまうかもしれない。
教育とは、自立のための支援
私は、教育の目的とは自立のための支援だと思っている。
だからこそ、教える側が殻を割ってあげることが目的ではない。
殻を破る主役は、あくまで本人だ。
自分で考えた。
自分で挑戦した。
失敗しながら、それでも前へ進んだ。
そして最後に、
「自分でできた」
と感じられること。
そのために必要なら、外側からほんの少しだけ力を貸す。
それくらいでいいのかもしれない。
そして殻が破れたとき、
「私が教えたからできた」
ではなく、
「自分でできたね」
と伝えてあげたい。
いつか教える側がいなくなっても、自分で考え、自分で決め、自分の足で歩いていけるように。
それこそが、教育なのだと思う。
教育の幸せ
では、教える側にとっての幸せとは何だろう。
私はまず、その人が「できるようになった」と感じた瞬間に立ち会えることだと思う。
今までできなかったことができた。
わからなかったことがわかった。
そのときの表情を見るのは、教える側にとって、とても嬉しいものだ。
でも、もっと嬉しい瞬間がある。
いつの間にか、自分の力を一切借りずに、その人が誰かを喜ばせている。
自分で考え、自分で判断し、自分の力で誰かの役に立っている。
そして、さらに時間が経つ。
今度はその人が、自分の学んだことを後輩や同僚に伝えている。
誰かが困っている姿を見て、そっと手を差し伸べている。
その姿を見ることができたとき、教育というものの本当の幸せを感じるのかもしれない。
教育の幸せとは、自分が必要とされ続けることではない。
自分の力を借りなくても歩けるようになった人が、いつか誰かの歩みを支える姿を見ることなのかもしれない。
教えたものが、その人の中で育ち、その人自身の経験と混ざり合い、また次の誰かへと渡っていく。
そうやって、人から人へ受け継がれていく。
教育とは、そんな営みなのかもしれない。
成長の殻を割るのは、誰なのだろう。
誰かを大切に思えば思うほど、手を差し伸べたくなる。
親なら子どもに。
先輩なら後輩に。
上司なら部下に。
失敗しないように、先に答えを教えてあげたくなることもある。
でも、その人の人生を歩くのは、その人自身だ。
だから、こちらが殻を割ってはいけない。
ちゃんと見る。
待つ。
信じる。
そして、内側から小さな音が聞こえたときに、そっと外側から力を貸す。
やがて殻が破れたら、少し離れたところから、その人が自分の足で歩いていく姿を見守る。
そしていつの日か、その人が別の誰かのそばに立ち、同じように小さな音に耳を澄ませている。
そんな姿を見ることができたなら。
きっとそれは、教える側にとって、とても幸せなことなのだと思う。
成長の殻を割るのは、誰なのだろう。
私は、その答えを急いで教えるのではなく、
その人自身が殻を破ろうとする音に、耳を澄ませていたい。

